「おくりびと(英題:Departures)」がサンノゼで劇場公開されていたので観てきました。
アカデミー外国映画賞を受賞はした、というものの不思議な者で受賞前はどこでも上映しておらず(アカデミー賞の対象になるには少なくともロサンゼルス郡内で劇場公開されていないといけないので、かの地ではやっていたのでしょうけど)、かといって受賞後も大々的にやっていた、というわけでもなかったのでDVDを待つかな、という状態ではありましたが幸い地元で公開しているという話を聞きつけ、鑑賞に至りました。
必要以上に情緒的・感傷的にもせず、やたらとドラマチックなストーリー展開にもならず、コメディ要素も全編散りばめられているものドタバタ喜劇になるほどでもなく、抑制を効かせた淡々とした演出で「死」を「不可避なもの」そして「死者・生者双方にとっての一区切りないし経過点」として描いた作品だったと思います。「感動させよう」「何かメッセージを伝えよう」という押しつけを感じさせない、観て感情に強く訴求するかどうかは観るもののそれまでの人生における「死」との接し方次第、という性質の作品であったと思います。
主人公の生き別れの父親(峰岸徹のカメオ出演には驚きましたが)を軸にした主人公自身の「人生再発見」の物語が軸として起承転結を為してはいますが、その流れは2時間少々の作品として「まとめる」ために持ち込まれたものにすぎず、この映画の主役は様々な「死」とその背後にある「人生」を集約する「葬祭」、そしてそこで肉体が(火葬により)消滅する前に死者の「生ある時」をほんの一瞬だけ再現してみせ、残された者にとり「死」を少しでも許容しやすいものにする「納棺士」という仕事の意義なのだと思います。
「死」を扱った作品としては普遍性のあるもので、それこそこの映画をアメリカで中西部の田舎町あたりの葬儀屋を舞台にリメイク(あるドラマシリーズとの類似性はさておき)することは可能なのかな、と思いましたが、死体に科学的防腐措置を施して土葬する文化で「生前の姿を再現する」という「業者」としての仕事と、「すぐに棺桶に入れてしまう」し「燃やして骨になってしまう」のに敢えて遺族の前で死者の姿を整える「儀式の執行者」としての納棺士、というのではだいぶ意味が違ってくるので、たとえリメイクされたとしても換骨奪胎されたものになってしまうでしょう。また、繰り返し描写される納棺作業における、宗教的な「儀式」ではない「手順」へのこだわりはかなり「日本的」(という言葉を自分がどれほど理解して使っているか、はさておき)なものだと思います。
そういう観点からすれば、主人公がチェロ奏者であった、という設定は音楽を効果的に使う、という点では意味がありましたが、別に「銀行員崩れ」「元システムエンジニア」等でも成立した話だと思います。
出演陣も「抑制した」「淡々とした」アプローチでの演技で統一されていて、良い配役・演出であったと思います。山崎努の、言葉少なめで微妙な表情の変化とボディーランゲージ(というか「オーラ」ですかね)が場をさらってしまうのには感心しました。モッくんはちと棒読み系の台詞回しでしたが、実はこれはこれでこういう主人公ならこういう起伏の少ない反応もあるのかな、というので良しとします。広末涼子だけがなんだか浮いていたような印象を受けましたが、これは単に彼女が私の渡米以降に出て来た人なのでなじみがない、というだけの理由かもしれません。
アカデミー賞がどうのこうの、というのは全く切り離して言えば、細かな文句はあっても、納得感を持ちつつ、それこそ自分がこれまで体験してきた「死による別離」(幸い数は少ないですが)を思い起こしつつ、作品世界に感情移入して観ることができたので良い作品であったと思います。
【追記】 本作品とは無関係ですが、先日ミッキー=ローク主演の「レスラー」を観たのですが(ミッキー=ローク、老けて汚くなって瓶貯蔵の泡盛のような、ようやっと良い味になった、という感じです)、その直後に三沢社長の訃報を聞きました。特にファンであったわけでもないですが、この映画とも妙にかぶる部分があり、リングの上で死ねたのは悲しいながらも「美しい逝き方」だったのかもしれません。
正しい認識?分析ですね。
自分が思っていたことを代わりに書いてもらった気がします。
広末に関しては、一般的な人の反応を表したにすぎません。
当然のごとく、浮いたような演出なのでしょう。
自分の義理の母も昨年なくなりましたが、納棺の際にとってもきれいにしていただいて、感動したのは思い出しました。
「火葬」であろうが「土葬」であろうが、人の死は「区切り」だということをあらためて知った映画でした。
Posted by: すぎじい | June 17, 2009 at 06:34 PM
“リングの上で死ねたのは悲しいながらも「美しい逝き方」だったのかもしれません。”
フィクションの世界では確かにそうです。なので映画とか小説では美しく、胸をうつ感動的なシーンが多く創られてきました。それらを否定するつもりはありません。
…が、現実は違ってました。
TVや新聞、雑誌などで三沢選手のその映像・画像が伝えられてますが、それは壮絶な、思わず目を覆ってしまうほど残酷で悲劇的なシーンです。はっきり言って“エグイ”です。美しさはそこにはありません。そこにあったのは誰も見たくもない現実でした。今回の件で感じたことは、
「プロレスラーはリングの上で死んではいけない」
ということでした。
なおたけ氏が書いたことは、誰しもが想像でそう思っているだろうことであり、自分もそう思ってました。なのでその批判とかではないので、もし気分を害したのであればすみませんでした(その場合はこのコメントを削除してください)。ただ、自分の受けたショックが自分の想像を超えていたものだったので一言書かせていただきました。
三沢選手のご冥福をお祈りします。
Posted by: しぇげな | June 18, 2009 at 05:03 AM
すぎじいさん> 同じ「区切り」を司る仕事でもアメリカの「エンバーマー」は「生前の状態が埋葬後も保たれる」という幻想上にある職種で、これはやはり「死」=「最後の審判の時に蘇るまでの『待機』」という発想が元になっているのでしょうかね。
しぇげなさん> おっしゃる通りで現実の「死」、それも三沢社長のような事故死の「死の現場」は決して美しくも潔くも無いことは理解しています。上で「美しい」と書いたのは言葉足らずであり(また、ニュース記事の情報だけに反応したことでもあるので)、老いや病気のように苦しんだり、死が迫る恐怖を感じながら死ぬのではなく、自分のアイデンティティを発現する「舞台」で「現役」のまま「一瞬の死」をむかえてくれたことを羨む気持ちから来たものです。これはこれで生者のエゴであり、また「死ぬ」ことがぱっとスイッチが切れるように一瞬の暗転なのかどうかを体験しようもないので本当に苦しみの無いものかどうかはわからないのですが…。
「意見」ならぬ「違見」を聞きもしなくなったらおしまいだと思いますので、こちらも考えて答えたくなるコメントは残させていただきます。
Posted by: naotake | June 19, 2009 at 06:14 PM