Open Source Everywhere
というタイトルのWiredの記事を見つけた。内容としてはLinuxなどでお馴染みの「オープンソース」のモデルを発展途上国におけるコレラ治療用の新しい医療機器の開発に適用し、成功したという話から始まって、いかに従来の組織の枠組みを越えたcollaborativeな智恵の集積より新たなモノが生れているか、それがどうやってこれからの企業のイノベーション活動を変えうるか、ということを記述しているのだが、背筋をゾクゾクさせるような興奮を味わってしまった。
Open source harnesses the distributive powers of the Internet, parcels the work out to thousands, and uses their piecework to build a better whole - putting informal networks of volunteer coders in direct competition with big corporations. It works like an ant colony, where the collective intelligence of the network supersedes any single contributor.
オープンソースは単にボランティアの活動に依存して独占的でない知的所有権を形成し、コストを引き下げる手段ではない。上の1節に「to build a better whole」、そして「the collective intelligence of the network supersedes any single contributor」とあるように、創造の結果だけでなく過程を共有することによって参加者が互いに触発し合い、これまでに無かったもの、素晴らしいものを作ることができるのだ。それはまた、無数の凡人が互いに思考を共有し、足りない部分を補い、アイディアの連鎖反応を起こすことにより、より大きなインパクトを(大げさに言えば)文明に与えることを可能にするのである。これまた大げさな言い方をすれば、より多くの人に、「自分の生きた証」「自分のいなくなった後に残るモノ」を残す道を開いた、と言っても良いかもしれない。
少し脱線すると、この「過程の共有」というのは、先日のポストで書いた、blogによるナレッジマネジメントシステムの置き換えにもつながる話なのかもしれない。多くのナレッジマネジメントシステムというのは「個人が考えた結果」を共有する手段であっても、途中で捨てたアイディアまでも含めた「考えた過程」まではキャプチャーしていないのではなかろうか?そうすると、「結果の共有」以上に想像力を刺激する「過程の共有」がなされず、有効性は低いのではなかろうか。Blogというのは、一部の人を除けば、書き手のリアルタイムの思考プロセスの共有を可能にするものだと思う。そうなると、blogのフォーマットによるナレッジマネジメントの方が、より有効なものができるのかもしれないのではないだろうか?(こう書いているのも私の仕掛品の思考であって、これを読んでもっと面白い事を思い付いてくだる人が居ると良いな、と思う。)
閑話休題。
"There's a reason we love barn raising scenes in movies. They make us feel great. We think, 'Wow! That would be amazing!'" says Yochai Benkler, a law professor at Yale studying the economic impact of open source. "But it doesn't have to be just a romanticized notion of how to live. Now technology allows it. Technology can unleash tremendous human creativity and tremendous productivity. This is basically barn raising through a decentralized communication network."
「barn raising」というのは村の皆が協力して農家の納屋の棟上げをすることだが、この場合、このサイトにあるように、個の利害を越えた共同体精神のメタファーとして使われている。映画「アポロ13」を思い出して欲しい。宇宙船の中の2酸化炭素濃度が高まり、乗員の生命が危機にされされた局面で、NASAのスタッフが智恵を持ち寄り、あり合わせの材料で空気の浄化装置を作る方法を編み出し、それを無線で乗務員に伝え、作った装置が作動して2酸化炭素濃度が正常に戻ったシーンで指令センターの皆がわっと喜んだシーンがあったが、あそこでセンターの皆が感じていた感覚こそが、「barn raising」により象徴される感覚である。冒頭に紹介されたコレラ治療のプロジェクトに参加した人々も、自分の貢献したアイディアが大勢の命を救う製品に、まるでジグゾーパズルが少しづつ出来上がるようにはまり込んで行く感覚を味わったはずである。
So what motivates Wikipedia contributors? Pretty much the same things behind any open source project: a dash of altruism, a dose of obsessive compulsiveness, and a good chunk of egotism. It lets users have a hand not just in shaping the debate, but in designing the product. Some are genuinely motivated by the greater good, or find it satisfying to apply their professional knowledge to a broader audience, pro-bono style. And some get to prove how smart they are.
「素晴らしいことへの参加の喜び」といういささか青臭くも聞こえてしまう動機だけではない。上の1節でも言われているように、個人の貢献を認め合い、活用しあうオープンソースの世界は、「個人のエゴ」をも満足させることができるのである。
ここで一つ注意すべきなのは、オープンソースの「共同体意識」というのは企業のような「共同体存続のための共同体」ではなく、「世の中に広くインパクトを与える目的を実現するため、自発的に組成された個人の集合体」に対し向けられているものである、ということだと思う。ただし、「オープンソース」=「企業破壊」では決して無い。この記事の最後の方に書かれているように、企業も「オープンソース」を活用することにより様々な恩恵を受けることができるのだ。
Open source is often framed as an attack on the corporate world at large. But in fact, the open source approach can be a boon for companies. Licensing from a trusted collaborative project saves money and leaves the technology open to further development. By showing corporations that a closed, defensive approach to intellectual property can be less efficient than liberal licensing, Cambia and a few other open source efforts are leading the way to the mainstream.In this light, where corporations are part of the model, open source suddenly becomes something less marginal and more ingenious. It forces industry to reckon with openness rather than hide behind intellectual property. In driving down the cost of software or encyclopedias or biotechnology, open source is unleashing billions in capital otherwise put to woefully inefficient ends.
コレラの例もそうだが、個人のアイディアの集合体だけでは実現できない資源・資産(例えば、多額の資本投下が必要な生産設備などは企業体でなければ作れない)を提供するという形で企業もオープンソースのネットワークの一員として、「(自社にとっても、世の中にとっても)価値を産むモノ」の創造に参加することができるはずである。
私はここ数年、知的所有権などで定義される「テクノロジー」そのものを売るビジネスから、そのテクノロジーを使って何かを行う「アプリケーション」を提供するビジネスに価値がmigrateする過程が起きているのではないかと思っているのだが、「オープンソース」というのはその過程の「driver(要因)」でもあり、「manifestation(具現化)」なのかな、とも思う。
いずれにせよ、こうした記事を読んだり、SETI@HomeやProject Gutenbergの話を聞くと、つくづくupliftingな気分になる。そして、そうした壮大かつ「残るモノ」を目指したプロジェクトが驚くほど多くの人が参加する形であちこちで行われているアメリカという国で生活をしていることを幸運に思う。それと共に、「文系」の自分がそういったプロジェクトに貢献する事は可能か、どういう形で貢献できるのかという問題についても考えさせられてしまう。その答えはまだ出ていないが、「マネジメント」というスキルを通じてなのかもしれない、ということをおぼろげに考えつつある。
この思考過程も、形を成すにつれ書き連ねてみたい。
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